No.1312024.2.3

ふと思うと、小さい頃、父親が10枚のLPがかかるオートチェンジャーのプレイヤーで、タンゴ、ボサノバ、アメリカンポップス、色々な音楽をかけていたのが耳に流れ、その中にナットキングコールの歌もあり、その低い甘い声に魅了された覚えがあります。
小学校の高学年で音楽の時間に楽典そして歌唱のテストがあり歌唱のテストで、♪ボルガの舟唄を歌い満点を取り、歌うことへの興味もその時持ったのかもしれません。
私は小学校から大学まで、吉祥寺にある成蹊学園で学び、先輩に服部克久先生がいらっしゃり、学生のころからお付き合いもあり、上トン、上トン(愛称)と呼ばれてました。
その先生の勧めもあり日本作編曲家協会に入らせていただきました。
高校時代演劇部に入っていて合宿の時ですが、休憩時間の合間に側にあったギターを持ってみんなでフォークソングなどを歌って、当時、学生運動もあり過激な時代でしたが、のほほんとして穏やかな学園生活を送り、その時、友人から歌ってくれない?ともらった曲が、♪小さな日記。ニッポン放送のフォークビレッジと言う番組に、フォーセインツとして出演、これを歌ったことから全国的に広がり、レコード会社からスカウトの手が、、今でもお元気な、高嶋弘之さん(今や飛ぶ鳥落とさず有名な高嶋ちさ子さんの父親)に、脅かされ、溜池にあった東芝レコードのスタジオへ呼ばれレコーディングと、何がなんだかわからぬままにレコードデビュー(20歳、大学在学中)、プロダクションにも入れられて毎日コンサートではなくジャズ喫茶へ、昼4回、夜4回のステージをこなすような時代でした。
小さな日記の次に、♪希望をリリース(岸洋子さんは、翌年、我々の希望をタクシーの中で聴き、作詞家の阿久悠さんに女性詞に変えて欲しいとお願いしリリース、そしてヒットチャート1位になりました)我々のはオリコンチャート30位で止まりました、、(泣)



26歳のころまでアーティストでいましたが、将来のことも考え歌うことを断念し、当時のフジテレビの子会社へアルバイトで入り、毎日パシリ(コマ使い)それから3K時代を(きつい、汚い、危険)歩むことになります。
精一杯がんばったことから、契約社員、そして本体フジテレビの社員に兼ねてフジ音楽出版の仕事もすることになりました。いろいろな番組を担当、女子プロレス、ズバリ当てましょう!ラブラブショー、スター千一夜、そして、音楽番組も担当、ミュージックフェア、夜のヒットスタジオでした。
ミュージックフェアでは、番組ディレクターとして服部先生に編曲をお願いしたり、自分で制作する番組のテーマ曲を作り先生に編曲していただいた時もありました。
時が経ち、自分からの思いもあり、39歳で渡英、英国会社を設立、英国で音楽番組を制作、同時にコンサート収録なども手がけました。
1989年番組を通じて知ったポールマッカートニー、日本での公演に招聘するためマネージメントとプロモーターの間に入り手助けもさせていただきました。
ポール来日の時は、常に私がコンサートを撮影する仲です、、、?
13年間の英国生活から離れ、帰国し数年後にフジパシフックミュージックの代表として呼ばれて、社長、そしてJASRACの理事としても10年間ほど勤めさせていただきました。傍、再び音楽活動も始め、会社の持つ著作権曲、また、新たに自分が作曲などもしてCDを何枚か出しましたが、驚いたのは、女優の松坂慶子さんと歌いCDをリリースした時ですが、その話をすると長くなりますので機会を見ていつか、、、(笑)
昨年、6月末で役員を退任、その後、映像&音楽の仕事、そして、コンサート、ライブに、、今まで以上に忙しくしてます!
12月に、アーティストデビューから、57年&77歳(喜寿)になりました!
傘寿、米寿、へ一歩一歩、何かありましたら、お声がけください!
上原徹
teamTON2
(LINE ファンクラブ、ちーむ・とんとん)



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上原 徹

ふと思うと、小さい頃、父親が10枚のLPがかかるオートチェンジャーのプレイヤーで、タンゴ、ボサノバ、アメリカンポップス、色々な音楽をかけていたのが耳に流れ、その中にナットキングコールの歌もあり、その低い甘い声に魅了された覚えがあります。
小学校の高学年で音楽の時間に楽典そして歌唱のテストがあり歌唱のテストで、♪ボルガの舟唄を歌い満点を取り、歌うことへの興味もその時持ったのかもしれません。
私は小学校から大学まで、吉祥寺にある成蹊学園で学び、先輩に服部克久先生がいらっしゃり、学生のころからお付き合いもあり、上トン、上トン(愛称)と呼ばれてました。
その先生の勧めもあり日本作編曲家協会に入らせていただきました。
高校時代演劇部に入っていて合宿の時ですが、休憩時間の合間に側にあったギターを持ってみんなでフォークソングなどを歌って、当時、学生運動もあり過激な時代でしたが、のほほんとして穏やかな学園生活を送り、その時、友人から歌ってくれない?ともらった曲が、♪小さな日記。ニッポン放送のフォークビレッジと言う番組に、フォーセインツとして出演、これを歌ったことから全国的に広がり、レコード会社からスカウトの手が、、今でもお元気な、高嶋弘之さん(今や飛ぶ鳥落とさず有名な高嶋ちさ子さんの父親)に、脅かされ、溜池にあった東芝レコードのスタジオへ呼ばれレコーディングと、何がなんだかわからぬままにレコードデビュー(20歳、大学在学中)、プロダクションにも入れられて毎日コンサートではなくジャズ喫茶へ、昼4回、夜4回のステージをこなすような時代でした。
小さな日記の次に、♪希望をリリース(岸洋子さんは、翌年、我々の希望をタクシーの中で聴き、作詞家の阿久悠さんに女性詞に変えて欲しいとお願いしリリース、そしてヒットチャート1位になりました)我々のはオリコンチャート30位で止まりました、、(泣)




26歳のころまでアーティストでいましたが、将来のことも考え歌うことを断念し、当時のフジテレビの子会社へアルバイトで入り、毎日パシリ(コマ使い)それから3K時代を(きつい、汚い、危険)歩むことになります。
精一杯がんばったことから、契約社員、そして本体フジテレビの社員に兼ねてフジ音楽出版の仕事もすることになりました。いろいろな番組を担当、女子プロレス、ズバリ当てましょう!ラブラブショー、スター千一夜、そして、音楽番組も担当、ミュージックフェア、夜のヒットスタジオでした。
ミュージックフェアでは、番組ディレクターとして服部先生に編曲をお願いしたり、自分で制作する番組のテーマ曲を作り先生に編曲していただいた時もありました。
時が経ち、自分からの思いもあり、39歳で渡英、英国会社を設立、英国で音楽番組を制作、同時にコンサート収録なども手がけました。
1989年番組を通じて知ったポールマッカートニー、日本での公演に招聘するためマネージメントとプロモーターの間に入り手助けもさせていただきました。
ポール来日の時は、常に私がコンサートを撮影する仲です、、、?

13年間の英国生活から離れ、帰国し数年後にフジパシフックミュージックの代表として呼ばれて、社長、そしてJASRACの理事としても10年間ほど勤めさせていただきました。傍、再び音楽活動も始め、会社の持つ著作権曲、また、新たに自分が作曲などもしてCDを何枚か出しましたが、驚いたのは、女優の松坂慶子さんと歌いCDをリリースした時ですが、その話をすると長くなりますので機会を見ていつか、、、(笑)

昨年、6月末で役員を退任、その後、映像&音楽の仕事、そして、コンサート、ライブに、、今まで以上に忙しくしてます!
12月に、アーティストデビューから、57年&77歳(喜寿)になりました!

傘寿、米寿、へ一歩一歩、何かありましたら、お声がけください!
上原徹
teamTON2
(LINE ファンクラブ、ちーむ・とんとん)



