NO.123 2023.4.17

鍋島佳緒里

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気がつけば作曲家、という人生

初めまして。鍋島佳緒里と申します。カオリンと呼ばれています。周りの作曲家仲間のお話を聞くと「小学校4年の時に作曲家になろうと思ったんだ!」と、みなさん相当早い段階からご自分で作曲家になろう!と決意していらっしゃるのですが、自分はいつから作曲家になりたかったのか、とはっきり思い出せないのです。両親が敷いたレールを歩いていて従順だった子供時代が自分の思い出です。
母は音大卒業後、全音楽譜出版社の編集部に勤め、結婚後はヤマハの講師としてピアノを教えており、母の夢は私を音楽大学の教授にさせることでした。3歳からピアノを始め、小学校3年の時に武蔵野音楽大学附属音楽教室に第6期生として入室。水曜日が主科のレッスン、土曜日に3時間、ソルフェージュ、副科レッスン、合唱レッスン、と毎週、それが9年間続きました。そして中学1年生から突然高校3年生のソルフェージュ受験クラスに飛び級となりました。6年間フランスのノエル・ギャロンの美しい音楽の教材に感激し続けました。副科では打楽器を3年、さらに声楽を3年専攻しました。高校に入ると周りからの勧めで作曲の先生に師事したのですが、受験の際は作曲と声楽とどちらに進むか悩みました。声楽ならすぐ入学できそうだったのでまずは声楽科に入学。優柔不断だったのでいつまでも一つに絞れませんでした。が、声楽科に入学して3ヶ月で、自分は作曲が一番好きなのだと気づき、在籍浪人をして声楽科を1年で中退し、改めて同じ大学に作曲科で入学しました。蓋を開けたら主席での合格でした。両親は大喜び。これで大学の教授への道へと近づきました。ところが在学中に担当教授のグループと大学側が対立する事件が起こり、大学に残るのは難しい状況になりました。それで東京藝術大学の先生を探し、ソルフェージュの大家でいらした今は亡き永冨正之氏に師事しました。この辺りから親の思惑からはどんどん外れ始めます。東京藝術大学大学院には音楽学の中にソルフェージュ科、というのがあり毎年3名だけの募集で狭き門。そこに入学したかったのですが、合格はできませんでした。これは大変なショックで、初めて外の世界を知りました。がっかりして音楽を専門的に続けていく気力が失せ、当時交際をしていた男性と結婚しました。結婚の条件は4代目を生むために仕事をやめて主婦として彼を支える、というものでしたが、音楽に未練がなかったのでその通り家庭に入りました。が、数ヶ月後にスタジオで欠員が出てレコーディングにエキストラで参加。その時の音楽事務所からぜひに、と誘われ、そこからまた音楽生活が始まりました。5年ほど経った頃、当時の主人が「ここに100万円あるから、これを使って作曲家としてリサイタルしてみたら」と言ったのです。結局サントリー小ホールでリサイタルをする事になりました。その頃から憧れていた作曲家、故野田暉行氏に師事し始めました。初めてのリサイタルは皆様のおかげで満員でした。この時書いた作品は全音楽譜出版社から出版になり、東芝EMIからCDになりました。嘘のようなお話です。この後コンクール国内入賞、さらにベルギーに毎年2ヶ月滞在するようになり、海外での初演、再演がどんどん増えていきましたが、作曲家としての第一歩はこのリサイタルの年、36歳から始まったのです。振り返ると背中を押されると初めて動くという、いつも受け身の人生でした。ですが結局は作曲家になっていました。波間をただようマンボウのような人生ですが、心暖かい人、面倒見の良い方を探す能力は天才的だった、と自負してます(笑)こんな依頼心の強い自分ですが、〆切だけは守っています!これからもよろしくお願いいたします。


第二回
第三回


◎鍋島佳緒里(なべしまかおり) Profile
1960年東京生まれ。武蔵野音楽大学卒業後、放送・演劇の分野でキャリアを積み1996年サントリーホールブルーローズにて個展演奏会開催。国内コンクール入賞後ベルギーとの往復をしながら創作活動を展開。作品はパリ国立高等音楽院を初めヨーロッパの大学で毎年のように卒業試験の課題曲に採用され、近年ではニューヨーク大学、カレッジ・オブ・ニュージャージーの卒業演奏、マスタークラスにも採用され、さらにスペイン、オーストラリア、ハンガリー、チリ等、初演、再演の機会が海外に広がっている。全音楽譜出版社、音楽之友社、カワイ出版、佼成出版社他より出版・録音発売されている。


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