NO.50-3 2008/10/2

 

奥 慶一  Keiichi Oku   ●HP

連載NO.1を見る
連載NO.2を見る


私の履歴書(笑)(3. バンド〜作家へ)

 1978年春、東京芸大の大学院に合格しました。大学院では作曲を間宮芳生先生に師事することになりました。
学部三年のころからアルバイトとして、銀座や原宿のシャンソンクラブで歌手の伴奏をしていました。本当はジャズをやりたかったのですが縁がなく、初見でテンポが変化して合わせるのが難しいシャンソンの伴奏ばかり依頼されていました。少しの間ですが、キャバレーに入っているコンボ・ジャズ・バンドでピアノを弾いたことがあり、これが実質バンド初体験でした。とは言え、仕事はほとんどが歌手の伴奏で、ジャズのスタンダードナンバーはたまにしか演奏しませんでしたが、貴重な経験になりました。

  どこから話が回ってきたのか記憶が定かではありませんが、テレビの歌謡番組にシンセサイザー奏者として臨時で行く仕事もしました。その後、私と同い年の郷ひろみのバンドでキーボードをやることになり全国ツアーを一年半ほどさせてもらいました。リーダーは菊池ひみこ氏。非常にテクニックのある方で、いろいろ勉強させていただきました。この頃、当会会長である服部克久氏が郷ひろみのステージアレンジをされており、当時新宿にあった日本テレビ音楽院の練習スタジオで服部先生に初めてお目にかかったことは鮮明に覚えています。

  その後、松山千春氏のツアーでピアノを務め、レコーディングにも参加させていただき編曲もさせていただきました。この頃から徐々に書く仕事を増やしていきたいと思うようになりました。そして阿久悠さんのマネジャーをしておられた西澤氏から、オフィス・トゥーワンに入らないかとお誘いを受け、1994年まで十二年間お世話になることになります。

  トゥーワン時代には歌謡曲の作曲・編曲からイベントの音楽、ドラマの音楽と多種多岐にわたって仕事をさせていただきました。数少ない私のポップス作品である「決心」(岩崎宏美)を始め、「桃色吐息」(高橋真梨子)のアレンジ、東海テレビのドラマ「華の嵐」「夏の嵐」、オリジナル・ミュージカル「ZEAMI」(松本幸四郎主演)など、まさに忙しさの頂点でありました。

  90年代に入ってから、既存の楽曲のオーケストラ編曲の依頼が増え、ワルシャワ、アムステルダム、ロンドン、ミュンヘンなどで現地のオーケストラによる録音を何度も経験しました。特に、T-SQUARE の定番曲を英国ロイヤル・フィルハーモニックで録音したときは様々な個性を持つプレイヤーが集合して出す音のパワーに感動を覚えました。

  学生時代に頭の中で作り書き上げた「自己完結勝手理論」の現代音楽にはない、リアルな音の喜びを改めて知らされました。

  オフィス・トゥーワンを離れてからの私の仕事は劇伴が中心になりました。三つ子の魂百までと言いますが、中学生の頃から器楽曲、特にオーケストラ曲を書きたかった私にとっては幸いであったと言えるかもしれません。1994年に自分の仕事場を「Studio Ora」と名付け、今の場所に引っ越しました。防音もしていない普通の事務所用物件ですが、25帖ほどのスペースを仕事部屋とし、そこでベーシックトラックを制作し、レコーディングスタジオに持ち込んで生楽器をダビングするというスタイルに変わりました。

  1983年にヤマハが「DX7」という MIDI 規格のシンセサイザーを発売してから、音楽の現場が大きく変わりましたが、1990年〜2000年の Pro Tools の台頭は、まさにパラダイムシフトであったと思います。

(文中敬称略)

 

 
 

                      

PAGEのTOP へ!