NO.50 2008/9/3

 

奥 慶一  Keiichi Oku   ●HP

連載NO.1 「私の履歴書(笑) (幼稚園〜中学卒業まで)」 

 昭和30年に滋賀県の八日市市(現東近江市)で生まれました。幼稚園の時に先生の弾くピアノに興味を示していたそうです。小学一年生の時から近所の子供と一緒に音楽教室に通いました。音楽教室には遊び感覚で楽しく通っていましたが、一年で物足りなさを覚え、二年生の時からピアノを習い始めました。当時は電気オルガンが一般的で、ピアノは高嶺の花という感じでした。友達の家にピアノがあるのをうらやましがっているのを知って、三年生の時に親がアップライトピアノを買ってくれました。決して楽な生活ではなかった我が家ですが、高度成長期の当時、三種の神器の次にはピアノを置くことも流行っていました。これが音楽の道に進むことになった一番の要因かもしれません。
  三年生の後半ぐらいだったか、地元の高校の音楽教師の傍ら自宅でも音楽教室を開いておられた野田暁春先生に見ていただくことになりました。この先生の元で和声と対位法、ソルフェージュなど、音楽の基礎を学びました。このころの将来の希望は「作曲家かピアニスト」などと言っていましたが、それはあくまで夢物語だと思っていたのです。
 そのころ NHK の「太陽の丘」というドラマをよく見ていました。特に音楽が好きで、「作曲:山本直純」と出るのを見てあこがれていました。
 その後山本直純先生は森永エールチョコレートの CM に出演されるなど、指揮者なのにとり澄ました感じがしないところが好きだったのだろうと思います。
 そのころ家には真空管式のステレオセットがあって、親父が好きだったタンゴのレコードに交じってシューベルトの未完成交響曲とビゼーのカルメン組曲がありました。私はラ・クンパルシータなどのタンゴの名曲も好きでしたが、何よりも未完成交響曲が好きで、学校から帰って来るといつもソファーに横になって聴いていました。
 今思えば、1960〜70年代の日本は芸術音楽が最も熱かった時代であったようです。三善晃先生、黛俊郎先生、武満徹先生、間宮芳生先生、松村禎三先生をはじめキラ星の如く優れた作曲家の方が多く活躍され、作曲という道が男子の一生を捧げる価値のある仕事だと思えた時代であったと思います。
 やがて中学に入り、一年生の時はサッカー部で泥にまみれていましたが、いつまでたってもレギュラーになれそうもないことに気づき、二年からブラスバンド部に入りました。動機が不純なのはご多分に漏れずで、女子の目を引くためトランペットが効果ありそうに見えたからです。当時流行のフォークギターもやりましたが、Fのコードの完全制覇でつまずきました。私手が小さいのです。期待して入ったブラバンですが、勧誘の時と実際は大違い。最初はアルトという伴奏専門のあまりおもしろくない楽器を担当させられて年柄年中後打ちのウンパッ、ウンパッばかり。しかし一年間じっと耐え三年になると自分たちで演奏曲目を決められますので、ウケを狙って歌謡曲を編曲して文化祭で演奏したりしました。これが編曲の初仕事でしょうか。校歌も新しい編曲にしました。ちなみに報酬はもらっていません。
 この頃の私の愛聴曲はショスタコヴィチの交響曲第5番でありました。初めてテレビでN響が演奏しているのを聴いた時は背筋に稲妻が走りました。交響詩を書きたいと思い、何度も総譜を書き始めるのですが、続かずに冒頭だけの「未完成」が何曲もできていました。ピアノ教室は一年間休んでいましたが、自分で弾くことは続けていました。特にドビュッシーが好きで、アラベスクや子供の領分などを弾いていました。ショパンの幻想即興曲を独学で練習し、半年かかってなんとか弾けるようになりました。このころから、音楽に対する思いが再び強まり、親に頼みこんで野田先生のところに再び通わせてもらいました。
 この頃はまだ地元の県立高校普通科に行くつもりをしていましたが、中三の夏に何を思ったか突然、東京藝大の附属高校を受けたいと言い出したのです。それからピアノ、ソルフェージュ、和声、対位法の特訓が始まりました。しかし、指導してくださった野田先生からも親や周りの人間みんなから「受かるわけがない」と言われておりました。試験だけはなんとか受けさせてもらい、落ちたら潔く音楽はあきらめようと考えていました。 

そうして1971年の寒い冬、当時お茶の水にあった芸大附属高校の門を叩いたのです。


     


      

 
 

                      

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