NO.96
林ゆうき
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林ゆうきと申します、劇伴作曲家をやっております。

僕の音楽歴は変わっているとよく言われます。
当人は自分の事なのでそうは思わないのですが、簡単にまとめてみました。

1 生まれる。

2 高校で男子新体操を始める。

3 大学で新体操の伴奏曲を作り始める。

4 サントラ作家になる。

簡単にまとめるとこんな流れになりました、うん、変ですね。

京都の片田舎に生まれました、岩田山というサル山の近くです。
母から「あんたはあそこから拾って来たんよ」と言われて育ちました、僕もそう思います。

東京の人が東京タワーに登らないように、僕の知る限り京都の人は神社仏閣を特別にありがたがりません、だって適当に石を投げれば寺か神社にぶつかるぶぐらいそこらにいっぱいあるのです。大人になって周りから、「京都出身なの?ステキ!京都っていいよね~!」と言われて、「えへへ、そうかも・・・」と徐々に気づき始めるのです。

幼少の頃はおばあちゃんの家の近くにある上賀茂神社 (世界遺産)で鳥居をゴールポストにしてサッカーをしていました。
罰当たり丸出しで怒られてしまいそうのですが、手頃な大きさの鳥居が2つあってその間が芝生になっているのです、みんなやるよね!

有名な一休さんがいたという大徳寺の隣にある紫野高校という高校に進学しました。

たまたま入った学校で、京都府では2校だけがやっていたというレアすぎる男子新体操部があったのです。
知らない方には謎すぎるスポーツなので簡単に説明を、こんな感じのスポーツです。
https://www.youtube.com/watch?v=q4i9o1m6EIo

今でこそテレビなんかで取り上げられたり、シルク・ドゥ・ソレイユに出演したり知っている人も多いですが、当時は「レオタードでリボン回すの?きもい!」的に可哀想な扱いを受けていたのですが、「バク転できると楽しそうだな~」と軽い気持ちで入部しました。
これがやってみるととても面白くはまり込んでしまった僕は大学でも続けたいと思い、妖怪研究が趣味という井上円了先生が作った東洋大学に入ることになりました。

大学に進んでからはますます新体操しかやっていなかったのですが、選手は練習以外にも演技構成を創作することや、自分が踊りたい伴奏音楽を選ぶこともやるのですね。自分が踊るための音楽を選曲したり、好きな選手の使っていた曲を聴く中で音楽に初めて興味が出てきました。人よりも伴奏音楽へのこだわりが強かったので、自分で音楽の編集作業ができたらいいなと思い、「ミュージ郎8820」というお弁当箱のような機材を初めて購入しました、大学3年生ぐらいだったと思います。

そこからDAW関連の本や、作曲の本を読んで、独学で勉強しました。
練習が終わった後にせっせと自分が使う伴奏曲を作ったり、後輩や友達が使う曲を編集したりして小銭を稼ぎつつ、無事に大学を卒業、新体操の伴奏音楽を作ることが楽しくなり、これをお仕事にしてみようと考えました。

新体操の音楽制作は特殊なスキマ産業です、新体操のルールが分かっていて、新体操の世界での人脈があり、音楽の知識と選手の感覚を両立している人間でないと中々上手く作ることができません。

幸い、選手を長年やってきた自分にはそれがあったので、ここで技術と経験を蓄えて、それを土台に音楽の世界で勝負してみようと思いました。

5年ほど伴奏曲制作を続けた後、飽きっぽい僕はもっと違うフィールドで映像音楽を作りたいと思うようになっていました。
そこで色々なところにデモを送っていたのですが、澤野弘之さんにデモを送ったところお返事を頂き、同じ事務所に入ることができました。

これからもお仕事をたくさんできるように勉強していこうと思います、ありがとうございました。


※掲載は所属当時

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