NO.79
高田 弘
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#この道一筋に活かせて頂けた事に感謝して

此の度は会員の皆様のような、学識、実績もない私に<今月の作家>のコラムのご依頼に本当に戸惑っていましたが今80才となり好きな音楽の道にこれまで活かさせて頂けた事の感謝の気持ちで誠に恥ずかしい文面ですが50数年の想い出を振り返り乍ら、書かせて頂く事に致しました。

私の祖母が浄瑠璃<義太夫>の師匠で幼児期は朝10時頃から夕方まで太三味線のデデンデンデンと、お弟子さんの唸り声を隣部屋で聞かされ育ちました。そのせいで唄う事、語る事、が身に付いて行ったのでしょうか、3、4才頃にはお弟子さん方から歌を唄って、紅い花なら曼珠沙華を、と長崎物語と云う歌の意味も分からず只歌うと、お菓子を貰えるのが嬉しくて、歌好きな 少年に成って行った様に思います。

終戦後第一期新制中学生その頃は草野球、校庭、公園、お寺の境内でも野球少年で一杯でした。革のグローブ等買えず、祖母の帯芯で母がグローブらしきものを作ってくれ、学校から帰ると薄暗くなるまで野球でした。夕食後は当時小さな歌本が販売されていて、覚えた歌は全部時間を忘れ唄っていました。やっぱり野球より歌でしたね。今で云うアカペラ歌唱から脱出するため夏休み一ヶ月のアルバイト料と母の援助でギターを買い隣のお兄さんに教えて貰いました。C調3コードで唄うので高かったり低かったりでも楽しい日々でした。<何時だと思ってんだ、いい加減にしろ>と裏の親父さんに怒鳴られた事も何度かありました。

TVのない時代、ラジオ番組の花形、NHKのど自慢で三つ鐘、民放放送の初期、名古屋CBC放送局十人抜きのど自慢、愛知、三重、岐阜県、の決勝大会で優勝し友達からプロみたい、テナコトイワレテ、その気になって、定時制高校中退19歳で上京、まったく無謀な事がよく出来たものです。まあ勉強は出来が悪かったから、私シッパイシタトモ、オモッテイマセンカラ。

良き友の世話になり大巨匠であられる、服部良一先生に歌のご指導を受けられた事は夢の様な事だったと今も感謝しています。一つの音から一つの音への飛躍は只、上がる、下がるの音ではなく、その度数による精神<感情>度合いを表すものだ。と教えられましたが当時の私にはその意味の把握など出来ませんでした。言葉にメロディー、リズムが付き歌と成る、その言葉の持つ意味<感性>を活かす事が、作曲、編曲、歌手、の三拍子の心構えが肝心だと先生は教えて下さったのだと、いまは感じています。凡人の私が歌手に成れなかったのは当然で有ります。

#歌手への願望を断ち切って

音楽学校での教育も受けず、好きなこの道で生きて来られたのは、良い先輩に恵まれた事と、映画音楽の写譜を受け持つ事務所に入所出来た事です。お給金も頂け、何よりも著名な先生のスコアを写譜して撮影所のダビングルームで録音<フィルムに録音>する現場を見る事が出来た事は、私にとっては最高の音楽教室で有りました。映画によって編成は違いますが、いつもフルオーケストラで総勢35名位が普通でしたね。渋谷の明治通り、今はないかな、東映の映画館が有って、その先あたりに東宝撮影所のバスが楽士の方々、関係者を迎えに来て呉れ、そのバスに乗って行くのも楽しかった想いでの一つです。後に大船の松竹撮影所、砧の東宝、調布の日活、等、自分の音楽でお世話に成る事など夢にも思っていませんでした。

TV時代の到来兄とも云える先輩のお世話でキングレコード専属作曲家としてお世話に成りましたが、良い成果も上げず2年程でフリーと成りました。レコード会社から専属制度は無くなり、フリー作家の時代に、TV局、音楽プロダクション、が音楽製作を始めました。その頃ポップス界の大作曲家すぎやまこういち先生に出逢えたことは、私には天の助けで有りました。厚かましくもご指導をお願いしました。未熟な私にポップスのアレンジの秘訣など、優しく教えて頂き、渡辺プロのCM製作部の渡辺企画のお仕事までお世話して下さいました。フリーになり暗闇の道に彷徨うばかりの私に、大きな灯りを点して下さいました。また先生の一門の先生方にもお世話に成り感謝の念で一杯です。

時代の流れが歌謡音楽を、変えて行く、それも良し、歌という音楽が時の流れを、変えて行く、それも良し、今私はPro.Toolsを友として音遊びと、歌のレッスン、月一程度のゴルフ散歩に、明け暮れております。作、編曲家協会の先生方の、ご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

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