NO.33
村松崇継
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 作曲家になろうと決心してから、早くも12年…。とにかくがむしゃらになって走ってきました。そして、やっと作曲家の端くれとして、活動しだして本当に毎日が新しい発見ばかりです。僕は、現在26歳。いたって普通の家庭に生まれ音楽とは疎遠な環境で育ちました。静岡の片田舎の何もない町に生まれた僕に、その当時、教育熱心だった母親は、色々な習い事を押し付けました。でも、どれも僕の飽きっぽい性格のお陰で、長続きはしませんでした。唯一続いたのが、ピアノでした。
僕の習った先生は、本当に厳しい先生で、何度も挫折して止めようと思いましたが、いつも「ここで止めたら、今まで先生に怒られた自分がバカバカしい」「努力が水の泡になる」と思いとどまりました。
今では毎年夏休みは、ピアノのコンクールの為に必死になっていた自分を思い出します。作曲に目覚めたのが、小学5年の頃だと思います。先生が、「このモチーフを使って一週間で曲を作ってみて」と宿題を出してきました。普段から楽譜を作り変えて弾いてしまう癖を知っていた先生からのひとつの提案だったのかも知れません。そして出来上がった曲が切ない感じの曲で、僕は「晩秋」というタイトルをつけました。ただ秋に作ったというだけの理由です。徐々に作曲に興味を覚えた僕は、テレビやラジオから流れてくる曲を耳でコピーしてピアノで弾くことや、即興で演奏することがストレスの発散になっていきました。
中学生になると吹奏楽部に入り、サックスをやりたいと希望しましたが、トロンボーンに回されてしまいました。それまで主にピアノの譜面しか見たことがなかったので、吹奏楽のスコアやサウンドは自分にとって新しい音楽の発見でした。この頃顧問の先生から、運動会用の45秒位のファンファーレの作曲を頼まれて、必死で作った思い出が蘇ります。そこから吹奏楽や管弦楽等への興味が広がっていきます。中学3年の進路指導の時に、将来なりたい職業の欄には作曲家と書いてしまう程、のめり込んでいったのです。でも、一体どうしたら作曲家になれるかなんて知る由もありませんでした。その後は家から見える風景や情景を毎日1曲ずつ作りためていく様になり、また、少ない小遣いを貯めては映画のサウンドトラックのマニアとなりました。
真剣に音楽大学の作曲科に入るべく、習っていたピアノの先生の紹介で、作曲の先生の元へ通い始めました。和声、対位法とまるで、数学の問題を解いているような感じでしたが受験の為では仕方がありません。やっとの思いで、国立音楽大学作曲学科に普通高校から進学しました。
大学では、音楽漬けのとても楽しい生活でした。ただ、現代音楽を書くことは少し抵抗がありましたが…。ゴスペルやビッグバンド等の音楽に参加することもできたので、今までにない音楽の幅を感じました。地元浜松のコンテストで賞をもらってから在学中にピアノのソロアルバムでCDデビューしていた僕に、卒業間近になって、角川映画「狗神」(原田真人監督)というホラー映画の音楽を担当するという話が舞い込んで来たのです。泣いて喜びました。憧れていた映画音楽を作曲させてもらえるからです。その後、がむしゃらに進んで来ましたが、2003年の秋に初めてのテレビドラマの仕事でNHK連続テレビ小説「天花」のお話を頂き、冬に自分の曲をスタジオで皆さんに演奏してもらっている時に思わず泣きそうになりました。2004年の春から本当にテレビから自分の作曲した曲が流れてきたときには、本当に親孝行が少しできたような気になりました。今、浜松の実家では、大画面の薄型テレビが導入されています。
音楽で身を立てていくことは生易しいことではないと、周りのスタッフから良く云われます。音楽をやればやるほど自分の未熟さを知り、新しい仕事と出会えば、また発見の連続です。今後10年ぐらい経ったら、皆さんに"あいつの作るのいいよね"と云われる位の存在になりたい と思います。
村松崇継という名前を皆さんに覚えていただける様、頑張ります。

村松崇継
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